文章:林慶
銚子電鉄を知っているかぁ〜!!!
鉄道マニアを唸らせ、100年以上に渡って地域住民をガタンゴトンと運び続ける、千葉県銚子市のローカル鉄道だ。しかし、時代の移ろいの中での経営はギリギリらしく、ここ数年は線路の下にある石を売ったり(えっ)、(経営が)まずい棒(笑)などの名物商品で、注目を集めたりもしている。
そんな銚子電鉄が、ここ数年で最も大きな苦境に立たされたのは2014年。経営難に追い討ちをかけるような脱線事故が起きたのだ。
修理するお金なんてない…これからどうする…
頭を抱えた大人たちの誰1人として、翌年には「銚子電鉄の復活劇」がメディアで話題になることなど予想していなかっただろう。
そして、その復活に要する約500万円の資金を集めたのが「1人の高校生」だったと知ることができたなら、果たしてどんな顔をしただろう。
ということで今回は「地元」に視点を置き、まっすぐな愛情で世界を揺らす1人の「ゲームチェンジャー」の物語。
では早速、始まり始まり〜。
お話を聞かせてくれたのは、千葉県銚子市の最年少観光大使・和泉大介さん。
凛とした佇まいに少年のような笑顔をまとった彼こそが、電鉄を救った当時の高校生だ。
インタビューの依頼でお声がけをしたところ、この夏に銀座にオープンしたばかりの江戸フィールに招いてくれた。23才という若さで自ら会社を立ち上げ、埼玉県川越市出身の友人と「地元の食材を東京で!」とこのお店を始めたのだそう。
「いらっしゃい」と出迎えてくれた彼の一声と共に、いよいよインタビュー開始!
高校生が500万円を集めるまでの裏話
—— 大介さんを知ったきっかけは、テレビでも度々取り上げられている「銚子電鉄の復活」だったのですが、地元への強い思いはずっと前からあったんですか?
それがそうでもないんだよ笑。高校1年生の頃に、地域の100人くらいの大人に話を聞きに行くフィールドワークがあって、そこがきっかけになったんだ。
市長さんにお話を聞いたり、魚屋さんとかお坊さんとかにも会いに行って「こんなにキラキラしてる人たちがいるんだ」って感動したんだ。それも、たまたま高校の掲示板で「銚子の10年後の未来を考える高校生募集」みたいなチラシを見たのがきっかけだったね。
銚子電鉄の復活はクラウドファンディングを使ったんだけど、その存在を知ったのもその時で、市役所の方が銚子の紹介本の出版費を募るのに使ってたんだ。当時は「そんなものがあるのか」くらいに思ってた。
その後の転機は、高校の3年になるとき。選択授業の1つに地域に焦点を置いたものがあったから、「これでしょ」って即決した。ワクワクするし単位も取れるし笑。
具体的には「地域に実践して何かチャレンジしようよ」みたいなコースで、そこで頭に浮かんだのが銚子電鉄。2014年の1月に脱線事故を起こしてしまって、車両が1つ走れなくなって便数も減ってたんだ。
小さい鉄道だけど、地元では通勤や通勤で使う人もいたんだけど、銚子電鉄の直接話を聞いてみたら「金銭的に厳しくて、脱線した車両がもう線路に戻れない」って。
——そこで頭に浮かんだのが…
クラウドファンディングだね。市役所でお話を聞かせてくれた人が、そんなものをやっていたなぁって。その話を説明して「何かできませんかね?」って提案してみたんだ。
その時点では電鉄の人もクラファンなんて全然知らなかったし、ましてや高校生の事例なんて耳にしたこともなかったから、漠然とした不安はみんなあったと思う。それでも「とりあえずやってみようか」って話が進んだんだ。今思えばかなり体当たりだよね笑。
それが高校3年生の6月くらいで、実際に企画がスタートしたのが8月末。11月に目標額に達成したから3ヶ月だね(詳しいお話は記事後半にて)。実際に車両が線路に戻ってきたのが、2015年の4月だから、僕が大学1年生になってすぐの頃。
——とんでもない入学祝い!!
確かにそうとも言えるかも笑。入学してすぐに銚子に一旦帰って、セレモニーにも参加したよ。あれは本当に嬉しかった。
鉄道へ戻った車両の写真は店内の壁にも。
最年少観光大使の実生活は奇想天外!狭い一人暮らしアパートにキャベツが100玉
そもそも、どのような経緯で観光大使になられたんですか?
自治体によって結構バラバラではあるんだけど、銚子の場合は僕に予算が割かれていないから金銭が発生するわけではないのね。更に任期もないから、言ってしまえば永年。
その職につけることになったのは、クラファンとかに加えて色々、例えば大学に入ってからも友達とかをたくさん連れてきて案内していたっていうのも大きいと思うんだ。
あ、あと大学でキャベツを勝手に売ったりもしたね笑。銚子主催のイベントで、色々な場所の学生に収穫体験をしてもらおうって事業があって、そこで知り合った農家さんのキャベツが大好きだったんだ。
それで「自分で売る体験もしたい」と思って、「僕に100玉くらい託してくれませんか?」ってお願いしたら、当時の一人暮らしの狭い家にキャベツを100玉、本当にドンっと託してくれちゃって。その後は、めちゃめちゃいろんな人に「キャベツ買わない?」って連絡した(笑)。
それも結構な値段でさ、300円とか。それでも80個くらいは売れて、残りも自分で買ったり、戻したりしたからロスはなかったけど、あれは大変だったね。あ、でも、よく考えたら大学の中で商売したらいかんよな(笑)
アフロヘアーの農家さんが作るキャベツ農家にて。
実際に活動を始めてみてからは、みなさんすごく良くしてくれたから「これはキツかった」っていうのは特にないかな。…あ!一回だけ、市役所に呼び出されて怒られたことがあったな。
——(えっ)
僕も未熟だったから「発信発信」ってSNSを盛んにやってたんだけど、まだ確定していない内容をほのめかすようなことを言ってしまったことがあって、それを見たフォロワーの人から「これってどういうこと?」って市役所に連絡があったらしいんだよね。
発信や発言が、自分が思っている以上に広まっているってことを理解していなかったし、言葉に慎重になるべきだったな、っていうのは若さゆえ過ちだったね。
——SNSだと発信が手軽すぎてケアレスになってしまったり、ちょっとした誤解が独り歩きしたりもしますものね。
うんうん。やっぱり言葉って自分が思っている以上に力があるんだよね。読み手の数だけ解釈もあるし。
ただ、僕が銚子では最年少の観光大使ってだけで、同世代の観光大使も全国にはポツポツといるんだよ。大学時代に学生団体「SUKIMACHI」っていうのに先輩に誘われて、一期生として入ったんだけど、そこにも観光大使がいたよ。
「SUKIMACHI」メンバーが江戸フィールに来店した時の1枚
メンバーは出身がばらばらのメンバー30人くらいで、「地元好き集まらん会」っていうイベントをやったり、メンバーの地元に遊びに行ったりしてるんだ。
自分の町はもちろんなんだけど、自分と同じように地域を愛してるやつらと話すのが単純にすごい楽しいな、と思って。大学を卒業して今は引退してるんだけどね。やっぱり同じパッションを持った人たち同士でコミュニティがあると心強いし、楽しいし、鼓舞しあえる。
「もう一度、ここから地域のレールを敷き直す」…そのためだったら「なんでも」する
地域発信にも色々な形がありますが、なぜ起業して、東京に江戸フィールを出そうと思ったんですか?
実は店を開こうなんて、全然計画してなかったんだ。見切り発車で会社をつくったはいいんだけど、何しようか分からなかった。
——ええええええええ!!!!
大卒で就職はしたんだけど、すぐに精神的に辛くなってしまって(笑)。業務量の問題ではなくて、ワクワクできなかったんだ。色々な地域と関わる企業ではあったんだけど、事務仕事みたいな感じだったからさ。オフィスまで行って、「すみません。今日しんどいので帰ります」みたいなことも…「ここじゃない」って気持ちが抑えられなかった。それで、あ、自分でやるしかないなって。
それで企業したんだけど、熱と愛だけではビジョンが定まってこないわけで(笑)。そこで先輩が「銚子の鯖を使った鯖サンドやってみない?」って声をかけてくれたんだ。
——鯖サンド…?
そうそう。銚子って日本一魚が取れる町で、その中でも鯖とイワシが大多数を占めているんだよ。鯖サンド自体は、元々はトルコのソウルフードなんだけど、その先輩が現地で食べたそれがすごく美味しかったらしいんだよね。
それで「和泉くん、これ銚子の鯖使ったら絶対美味しいの作れるよ」みたいなところから始まった。僕も鯖サンドなんて聞いたことがなかったから、すごくワクワクしたよ。
その先輩はイタリアンのシェフだから、商品開発も主に担ってくれて、まずは麻布十番で試し売りをしてみたんだ。もちろん企業して急に金銭的に回るわけがないから、麻布十番のコワーキングスペースでも業務委託を受けてるんだよ。
そこで鯖サンドがすごい評判でさ、その先輩が「泉くん、銀座で店開こうよ」って。それで「やります!飲食店ってなんすか?」みたいな笑。
——とてつもないスピード感…!!
ただそこで大義を示さないと、共感も得られない。たまたま飲食店っていう手段と機会をいただいたけど、もちろんそこには「銚子を発信したい」って気持ちが根本にある。だから「やることがないから」って姿勢では決してなかったね。
ちゃっかり鯖サンドを作ってもらう我々。肉厚な鯖とビターなタレの相性が抜群!こりゃ売れるわ!
銀座には銚子の店なんてなかったし、このコロナの状況下で、市が積極的にPRできないからこそ、自分っていう小さな単位を活かしてできることがある、やりたいって思うんだ。
——漠然としたパッションでも、チャンスを上手く使って小回りのきく動きができるのは本当に尊敬します。
銚子のためなら、仮に広告代理の仕事とかで声をかけてもらってても、きっとやってただろうね。これが僕の会社の名刺なんだけど、ロゴもその時に復活した車両のカラーなんだ。Rerailっていう会社名も「もう一度、ここから地域のレールを敷いて行こう」っていう銚子電鉄での“初まり”が大きく起因しているんだ。
クラウドファンディングの最初の支援者は〇〇。活動が大きくなっても、根本にあるのは「顔の見える人たち」
——あのぉ…この肩掛け触っていいですか?滅多に触れるものではないので…
——安田(カメラマン):え?私も触りたい!
え?触るもんなのこれ?(笑)これは銚子の後輩で、デザイナーをやってる人が作ってくれたんだ。上半分は銚子電鉄の歴代の車両のカラーで、こっちは銚子の魚をイメージしてるんだ。
——すごい!大介さんの周りにはいつの間にかチームのような繋がりができていますよね。大介さんのパッションと、それに呼応するような周囲のコミュニティとの息や化学反応があったのだなと感じます。
ねぇ〜ファンクラブだよね笑。嬉しいことだよ。このお店を出すときもクラウドファンディングをしたんだけど、支援してくれた人の半分くらいは身近な人で、もう半分も何らかの形で関わりのある人たちだった。顔がわからないって人はほとんどいなかったね。(江戸フィール開店に向けて行った、2度目のクラウドファンディングの詳細はこちら)
——これだけ広く繋がれる時代ですけど、活動の規模が大きくなっても、常に根本にあるのはそういう強い繋がりなんですね。
そうだね。クラファンでよく聞く「不特定多数の人に支援してもらえる」っていうのは、個人的には違うのかもって思うね。支援っていうのは顔が見える人たちから始まるものだから。鉄道復活を始めた時の最初の支援者も、お母さんだったんだよ(照)
━━っとここでインタビューは終了。
今回、かなりタイトなスケジュールの中でインタビューの時間を作ってくれたにも関わらず「自分で選んでやってることだから、大変でも今は無理していこうってね」と笑う彼。
心から「地元」と呼べる場所を持たない僕は、もともと地理的に1つの場所に留まることを苦手としているので、正直、インタビューの前は「自分とあまりにも異なる人の話を上手に聞けるだろうか」と斜に構えていた。
しかし、330度を海に囲まれた「地球が丸く見える展望台」や「ぬれせんべい」体験など、子どものような瞳で銚子について語る彼の姿を見れば、周囲の人が魅了され、自然と彼を取り巻く“チーム”の一員になっていくのも頷ける。
銚子を語る時の彼は「和泉大介」という個人の名前すらそっとしまい、ただまっすぐに地元を愛する者Xになるのだ。その透き通った姿に、人は心を震わせて、信頼と希望を託してきたのだろう。
取材の最後に、大介さんの夢を聞いてみた。
「誰にも言っていないから恥ずかしいんだけど」と打ち明けてくれた夢は、海外出店だそうだ。銚子電鉄と姉妹提携している鉄道がある台湾や、漠然とアメリカも目指したいという。
「何を大それたことを」
彼を知らない人は、そう言って冷笑するかもしれない。…けれど、あの佇まいを思い出しながらこのパソコンに向かっている今、小さな部屋の隅で「もしかしたら」と本気でニヤけている僕がいる。
取材写真:安田七海